かよちゃんの「あのね、」

自由帳みたいに描きたいことを描きたいままに♪

「できるできない関係ないよ」と言ってきたけど

 

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「できるできない関係ないよ。」

今まで何度かこの台詞を口にしてきたと思う。

でも私自身が凄くこの「できる・できない」の

呪いに囚われていたように思う。

 

自分の「できる」基準にならないと

楽しくない、楽しめない

だから目の前のこともやりたくなくなる。

 

以下の言葉が相棒の水谷豊が犯人に語りかける描写が

ふうに浮かんできた笑

 

「"できない"から楽しめないということは

"できない”と楽しむ資格がない。

そんなふうにも聞こえます。

 

そんなルールに囚われているとするならば

他の人も、何よりあなた自身が

辛いでしょうね。

 

"聴かなければ"という囚われも

あなたが自身に課したルール

なのではないでしょうか。

 

本当は聴きたくないけれど

聴いていた、聴かされていた

そんな無理をずっと重ねて

きたのではないでしょうか。」

 

さて私はどこでこの囚われを拾って

きたのだろうか

 

ふと思い出したのは中学高校の部活動時代だった。

吹奏楽だったけど、中学はとにかく

毎日のように怒られっぱなし。

注意されないように

間違えないように

正確にやらなければ

間違ってはいけない

だって先生に怒られるから。

そんな環境でやるんだから

劣等感ばかり身につくはで

楽しくはなかったと思う。

 

楽しいからやるんじゃなくて

先生に叱られたくないからやってたな

 

 

だけど表現、音楽は愛していたから

本当は何ができてもできなくても

「やりたくなーい。」

「だってできないんだもん。」

「今日は演奏する気分じゃなくて

譜面整理をしたいからやる。」

そんなこともオールオーケーな場で

 

”いい悪いとかない

ただそのままのわたしでありたかった"

 

ただそれだけだったのかもしれない。

 

この

「できないと楽しくない、放棄したくなる自分」

の中には実は本当は感じたかった別の気持ちがあるのかも

と最近になってようやく感じているところ。

 

「やりたくないことも確かにあった、

けど放棄したいわけじゃなくて

音楽を愛してたからこそ

”ただそのまま楽しみたかったね"」

 

私から私へのメッセージ

 

完全に”できるできない"縛りから

解放されたわけじゃないけど

少しだけ本当は感じていたかった

気持ちに気づけた気がした。

 

 

その日の夜に不思議なことに

オンラインの場で、御自身が描かれた絵を

みせてくれた方がいた。

 

見せてくれようとする様子が

「みて♪みて♪」

となんだか可愛らしかった(^^)

 

その絵は可愛らしい蛙さんの

絵だったのだけど、

その様子がまるで

ピュアな本姓そのものにみえた。

 

私自身が課している"できるできない”

劣等感のルール。

そこから抜け出して初めてようやく

自分の本来性が顔を出してくれたような

そんな気がした。

 

勿論ここに描いたこれまでのストーリーを

話したわけではないし私が勝手に

結び付けているだけなのだけど。

 

「みて、みて、

みえないだけで本当はこんな姿もしているんだよ。」

 

って私にみせてくれたみたいだった。

 

夜だったから数分のやり取りだったけど

その少しのやり取りが私にとっては

素晴らしいギフトでした。