かよちゃんの「あのね、」

自由帳みたいに描きたいことを描きたいままに♪

話が聴けてよかった(´U`)

昨日、お友達のFacebookの投稿で

「話を聴いてくれる方いたらメッセージかコメントお願いします。」っていう

メッセージをタイムリーに受け取ったので、「私でよければ」ってお返事した。

 

不特定多数の人の目に触れるSNSという場でこういった声を投稿できるのは

勇気なんじゃないかなーって感じた。

 

いま何をかきたいのかわからないけど、なんか自分の中のことを

とにかくアウトプットしたくて書いています。

 

(これも自分へのレッテル、思い込みだったりするかもしれないけど、

私は自分という人間をこんな感じに印象付けていたりする。)

 

私は昔から人の話を聴くということに苦手意識があったりした。

なんか忘れっぽいのか意識が跳ぶ族なのかわかならいけど

とにかく話の内容を頭に留めておく、ということが苦手らしい。

 

学校の授業はまぁついていけたりしたから支障はなかったんだけど。

 

右から左に流れていく感じ

 

「ちゃんと聞いてた?」

 

そんなふうに責められるのが怖くて質問もなにを聞いていいのか

何を聴きたいのか、わからなくなって

どんどん人との距離を

勝手につくっていたのかもしれない

 

何がわかっていて何をわかっていないのか

頭の整理がおいつかないのはなかなか辛い。

 

思考がフリーズする感じかな

 

いまは若干開き直っている感じもあるけど(笑)

 

 

ちょっと話が脱線してしまったけど

 

最近は「聴く」の意味合いが自分の中でも変わってきたように思う。

 

「アドバイスがほしいというよりは、¨ただその時の話すことを聴いてほしい

(耳を傾けてほしい) ってあるね。」って。

 

話を聴きつつ、わたしの話も聴いてもらってて…

 

前向きになれないことたーくさんあるよーって

 

人のこと妬んで勝手に拗ねていじけることしょっちゅうだよって。

明るさに救われる時もありけど、それが眩しく感じたり。

自分の中の腹黒い部分が際立つようで苦しい時も。

 

だけど

どんなにくそで最低な自分でも観察して観察して観察して

味方にできるのがアートだと思っている

 

だから最近は¨苦しい¨は¨苦しい¨で終わらせない

終わらせてたまるか!っていうなにくそ根性もくれたりする(笑)

 

話を聴いてもらうなかで

「かよちゃんの新しい一面を発見できた。」

そんな一言をくれて嬉しかった。誰にも話せていなかったでも
私以外の人に、「こんな感じのことを思っていたりするんだ」って
知ってもらいたかった。ジャッジがない場で。

 

どんな「事柄」じゃなくて

外側のことってそれほど重要じゃなくて

その時に「〇〇のように感じた。」

 

なんだってよくて。

 

なかったことにするのか

どんな扱い方をするのか

 

それは自分次第なのだと感じる。

 

頭だけじゃない実際に自分の手先を使って

¨表現¨することが自分を観察することに繋がるから…

 

だから私はアートで一生自分という深海にダイブしつづけ

たいんだな

 

ダイブしてった先で

いろんなことを発見できて

 

自身の手でライトをかざせることは自身を扱ってあげること

 

人生を切り拓いていく鍵になっていく

 

それを人に伝えられるくらいに

やってやってやりまくりたいんだな。っていうことに辿りついた。

 

SNSで発信してくれた、お友達。

SOS出せることは凄いよー勇気だよ。

話せてよかった、ありがとうーーー。